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2015年11月14日土曜日

#prayforparis




テロの知らせを見たり聞いたりすると、ぼくはいつも混乱する。

ひどいことだと思う。

とてもひどいことだと思う。

その出来事の背景にどんな深い事情があるのか、どんな深い思いがあるのか、ぼくには計り知れない。 

だから、ぼくが表面的に、酷い、ひどい、許せない、と感じる気持ちが正しいと自信を持って言えないし、他人に押し付けることもできない。 

この気持ちのやり場をどうすれば良いのかわからなくなってしまい、いつも混乱する。 

そして、ぼくの正しくない行いや気持ちが、どこかでテロ的なものと繋がっているような気がしてしまう。

ぼくにもこの出来事の責任の一端があるような気がする。

ぼくはいつも正しくない行いや悪い気持ちを持ちながら、それを隠しながら、自分を守るためにそれを正当化している。

Facebookでフォローしている、とあるアーティストの言葉(もしかしたらどこかからの引用なのかもしれないけれど)を見つけた。

人間は、何をやっているのだ。
世界は、何を望んでいますか?

ぼくが何かを祈っても、何も意味もないし、何も叶わないし、何も資格はないと思うけど。

2015年8月26日水曜日

夏のおもいで



夏の終わりが近づいているのを感じるようになりました。

少しずつだけど、日に日に暑さが和らいで来たり、太陽に照らされた影の角度が変わってきたり、いくつかの大きな台風が通り過ぎました。

今年の夏ほど、終わってほしくなかった夏はありません。

夏が好きで、夏が楽しくてそう思ったのではなくて、むしろ逆。

季節が始まって終わりを迎える変化を感じることで、夏のはじめにあった出来事からどんどん時間が経ってしまったことをいやでも思い出してしまいます。

四季を感じることで時間の経過を、嫌でも感じてしまう。

季節の移り変わりを時間の経過としてとらえたのは生まれて初めてかもしれません。

自分が中年になって、どんどん歳をとっていくことにも焦りを感じます。

なによりも、あの夏のはじめの出来事から時間が経って、記憶や感情がが薄れててしまうのがとても悲しい。


あのことを、ずっと憶えていたい。

あのことを、ずっと憶えていてほしい。

2015年8月19日水曜日

きもち


あれから1か月半が経った。

いろんな考えが頭を巡り、いろんな感情が行ったり来たりして、

苦しかったり、悲しかったり、怒りに震えて夜寝れなかったりした。


自分が何を欲しているのか、これからどうしたいのか、やっとおぼろげながら考えがまとまってきた。


「離れたくない。もっと一緒にいたい」


一度でもそういって欲しかった。

その一言があれば、すべて許せる気がする。

その一言を期待しているけど、その一言は聞けない。


「離れたくない。もっと一緒にいたい」

ぼくもその一言が言えない

2015年8月8日土曜日

ハート ランド


お店にハートランドがあると聞くと、必ず頼んでしまう。

はっきり言って、ビールの銘柄にこだわりはない。

ハートランドもとくべつ美味しいと思って飲んだことはない。


ハートランドを必ず頼むのは、名前が好きだから。

ハートランドと聞くと、心を失くした人間が、自分の心を探してさまようところを想像してしまう。

なぜそんな想像をしてしまうのかはわからないけど。


それは、ぼく自身が、心を失くしてさまよっているからかもしれない。


夏がますます暑くなってきた。

それに反比例するように、ぼくは孤独になる。


ぼくは自分の心の場所を探すこともなく、

いつものように暗い穴ぐらでうずくまって、この季節が通り過ぎるのを待っている。

2015年7月21日火曜日

届くことのない手紙

ぼくは、とても怒ってる。

なぜ、ぼくの目の前で、ぼくの嫌がることをしたんだ?


ぼくが嫌がることがわからなかったはずはないよね。

あらかじめはっきりと伝えていたし、そんなことをしたら怒るに決まっているよね。


でも、ぼくはすごく怒っているけど、きみが嫌いになったわけじゃないよ。


むしろ、すごく好きなんだ。

でも、だからこそ、こんなにも激しい怒りが込み上げてくる。

これからも同じことが起こることを想像すると、このまま、きみと一緒にいられないと思ったんだ。


きみは、何も言い訳もしなかった。

ぼくに対して謝ることもしなかった。


ぼくに対して何も語らず、何も聞かず、もう一緒にいられないと言ったぼくの意思を受け入れた。


残念だけど、しょうがない。

もともと、一緒にいること自体が不自然だったから。


いまでも、毎日きみの姿を見たくて探してる。


目も合わせない、話もしない、挨拶すらしないけど。


激しい怒りと、恋しい気持ちのどちらが先に薄まるのか。


早く時間が過ぎてくれたらいいのにと思ってる。

2015年7月15日水曜日

ぼくの中の熱量が、ある時一気に下がることがある。

あらゆる熱が、全て、一気に下がる。

歳を重ねることによって、もっとクールに、もっと淡々といろんなことを考えたりこなしたりできるようになると思っていたけど、実際は違った。

感情の浮き沈みや周囲の動向によって、かなり左右される。

辛いことがあれば沈み、楽しいこと、嬉しいことがあれば喜ぶ。

当たり前のことかもしれないけど、落ちすぎる傾向には自分自身でも疲れてしまう。

仕事や生活、人間関係にまで影響が出そうなぐらい落ちる。

怒りや、哀しみが押し寄せる。

また時間が経てばやり過ごせるのはわかっているけど、どうしてもコントロールできない。

そんな時に、自分の中のあらゆる熱が一気に下がり、

暗く湿った場所にうずくまっている錯覚に陥る。

2015年7月9日木曜日

ぼく自身、人を裏切ったり、陰でコソコソしたり、うす汚れてる嘘つきだから、人のことを責めることはできないことはわかってるんだけど、

どうしてもこの黒い気持ちが止められない。

ぼくは他人を責められるような人間じゃない。

今起こっていることも、自業自得。

わかっているけど、この胸の中に感じる黒いものが、点けたばかりの炎のように、ゆらゆら動いて、フツフツと熱を帯びて眠れない。

動悸が止まらない。

蒸し暑くて、眠れない。


2015年6月12日金曜日

一人称

最近、自分のことを「ぼく」と表現することに違和感を感じてます。

プライベートでは自分のことを「オレ」と言っています。

数年前に、上司から仕事上で「オレ」と言わないほうがよいと忠告されました。

忠告された瞬間は、自分が自分のことを何と表現しようと、どうでもいいじゃないかと思ったのですが、その時から仕事上は自分のことを「僕」と言うようにしています。

ぼくとしては、ふだんから使っている「オレ」を使ったほうが、より感情がこもって、親近感を持って相手と話せると思っていたのですが、上司や周囲の人はそうは思っていなかったようです。

ぼくは普段は無表情で目つきが悪く、動物に例えると「ゴリラ」とか、芸能人に例えると「フジモン」に似ている風貌です。

当時は120人の部下同僚のうち9割が女性という職場で、指示したり、発言したりする機会が多かったので、「オレ」といういい方はきつく感じられたのでしょう。

たしかに、ちょっとゴリってる目つきの鋭いフジモンに「オレはこう思うからこうするぞ!」みたいなこと言っても、おとなしい女性は怖くて逆らえないですよね。

そういう経緯があって、仕事上やあまり親しくない方と話す時は「僕」を使っています。


不思議なもので、「オレ」ではなくて「僕」を使うことで、自分自身の気持ちが穏やかになった気がします。

「オレ」が話すと攻撃的な思考や言動になるところが、「僕」が出てくると少し穏やかになるという、予想もしていなかった効果がありました。


でも、「オレ」と「僕」を使い分けていると、同じ自分なのに「オレ」と「僕」に乖離してしまったような気がします。

一人称を、場面に応じて使い分けているだけなのに、いまでは、どちらも自分になじんでいない気すらしています。


僕、オレ、私、我、自分など、いろんな一人称がありますよね。

あなたはどんな一人称で自分を表現していますか?

天然

ぼくは、天然パーマ。

梅雨時期は、前髪がくるくるしてる。


ぼくは、天然パーマ。

鏡の前に立つと、今日の天気がわかる。


ぼくは、天然パーマ。

髪があるのはありがたいけど、髪が伸びるのは困る。


ぼくは、天然パーマ。

略してテンパ。

伸びてくると、もみあげがクルンッとなる。


明日の湿度も高そうだよ。

いちおう傘を持って行こう。

2015年6月10日水曜日

むじんのまち

久しぶりの朝帰り。

夕方から朝までお酒を飲んで、ぼうっとする頭で街を歩いた。

朝日は横から照らしているので、街中のビルの間までは直接光が届くことはない。

でもきれいに晴れ渡った空が青く眩しくて、目が痛くなるほど。


夜通し一緒にいた人とは、何を話したかも覚えてなくて、とくべつ親しくなったとも思えない。

何時間も隣に座って、あれこれ話したはずなのに。

ぼくはいったい、何をやってるんだろう?

始発に乗るために最寄りの駅まで、だるさと頭痛を我慢して歩きながらそんなことを思っていた。

だれもいない街を、ひとりで歩きながら。

2015年6月3日水曜日

ゆうわく


甘いモノや、美しいものがぼくの前に訪れて、手招きしているような錯覚におちいる。

そんな時がたびたび訪れる。

本当は手招きなんてしていないのかもしれないけど、そんな風に感じてしまって、うすっぺらなぼくはフラフラと近寄ってしまう。

近づいて触れてみると、それは甘くなんかなくて、醜かったりする。

そしてぼくは負け惜しみを口にする。

「だって、近づかないとわからないでしょ?」って。

そうやって、こりずに同じ過ちを繰り返しています。

2勝4敗


ぼくは、勝負ごとにめっぽう弱い。

それはものすごく、弱い。

数年ぶりにした、ビリヤードも2勝4敗。

学生時代、結構やりこんでいたのにこのありさま。

ビリヤードだけではなく、勝負事全般弱い。

ダーツやトランプ、テニスに卓球、じゃんけんに至るまで5戦すれば必ず3敗はします。

技術的には、なんでもそこそこのレベルまでは到達してきたと自負していますが、いざ勝負となると大事なところで勝てない。

そんな自分を分析すると、「覚悟」が足りないんだと思います。

勝負事には、ある「分岐点」のようなポイントとなる部分が必ずあって、そこを逃してしまうのは勝つための覚悟が足りないんだと感じます。

勝負の流れの中で、「分岐点」をないように見逃さないように神経を研ぎ澄ませて、そのポイントが来た時に、全力でポイントを取りに行く。泥臭くても、勝機をものにしようとする「覚悟」。

そういうものが、ぼくには圧倒的に足りないんです。

絶対に勝つ!

そういう気持ちを持てないのは、ぼくの大きな欠点の一つです。

夜の川

今の季節は、陽が落ちてからの夜の川ぞいが、趣があって好きだな。

2015年6月2日火曜日

ぼくは、 ぼくになれない

ぼくは、ぼくになれない。


これは長きにわたって、ぼくの人生のテーマになっています。

ぼくは、仮面をかぶることで、周囲にウソをつき続けている。

もちろん、仮面というのは比ゆ的な表現で、実際にはウソをついたり隠し事をしたりしているわけです。

断片的な真実を織り交ぜながら、巧妙に身勝手なウソや隠し事を続けています。


自分に正直に生きようとすると、周囲にウソや隠し事をしながら生きていくことになる。

いつか、ぼくが、周囲にウソも偽りもなくぼく自身をさらけ出すことができるようになったら、

その時はじめて、本来の自分になれるんだと思う。


周囲に問題があるわけじゃなくて、ぼく自身に問題があることは明白なんだけど。

いまだに自分自身を出せずにいる。

どんな時も心の片隅に小さな黒い、汚れのようなものを感じている。

そして、それが白日の下にさらされることに、常におびえながら生活しています。

ぼくは、ぼくに なれない。

2015年4月29日水曜日

道をはずれる

仕事帰りに自宅までランニング。

数週間前は真っ暗だったけど、春になったので、走り始めはうっすら明るいのがうれしい。


月が出て、少しずつ暗くなって、空が染まって、街灯や看板、車のライトがともり始めて、夜になっていく過程を見るのは楽しい。

ふと、思い立っていつものコースを外れた道を走ってみた。


いつもと違うコースは、知らなかった景色が見られる。

元のコースに戻るまでの少しの間、もしかしたら道に迷うかもしれないという不安があったり、

あたらしい発見があるかもしれないという期待を刺激する。


道をはずれるのも悪くない。

2015年4月28日火曜日

へだたり

Webの世界でいろんな人と交流するのはすごく楽しい。

まるで、知り合いのように、友達のように会話をしたりする。

けれど、知り合いでもない、友達でもない。


そう思うと、SNSの中の相手を、すごく遠くに感じる。


距離というよりは、見えない壁のような隔たりのような感じ。

それは、ぼくが作って、備えたものだからしょうがないと思いながら、少しさみしい気持ちになる。

SNSとリアルの境界線は崩したくないから、それぞれがもっと充実していればこんな気持ちにならないんだろうな。

2015年4月21日火曜日

春の海

春は一番好きな季節です。

春のことを嫌いだという人は、そんなにはいないと思うので、ありきたりかもしれませんが。

それでも春が好きです。

春は桜が咲き、緑が芽吹き、新しい出会いや、切ない別れがある。

そんな春が中でも、春の海の景色はとても好きです。

穏やかで、まだ人であふれる前の砂浜で、波が寄せては返す。

遠くの船を眺めながら、暖かくなってきた日差しを受けながら、まだ少し冷たい風を感じる。


そんな、春の海が好きです。

2015年4月15日水曜日

あまい誘惑

人生も何十年も過ごしていると、いろいろな甘い誘惑に出会うことがある。

ぼくの周りでは、あまい誘惑がここ数年ですごく多い気がする。


なんでだろう?


いまのところ、あまい誘惑に片足を突っ込みながらも、全身がどっぷり浸かってしまわないように気を付けているつもり。

あまい誘惑にはまるのは、自分自身が甘いから、自分自身に甘いから。


あまい誘惑は、あたたかくて、柔らかく、どこまでも沈む沼のよう。

あたたかくて、柔らかい沼に沈んでいると、抜け出せなくなる。

2015年4月10日金曜日

ふりこ


日々、自分の気持ちがころころと変わる。

今日は大丈夫だと思ったことが、次の日になるとやっぱり躊躇してしまったり。

大丈夫だと思う根拠も、楽観的というか、リスクをきちんと理解していないというか、安易な判断をしてしまっている気がする。

左右に振れている振り子の幅は、大きくなったり、小さくなったりしながらも、慣性を無視して永遠に振り続ける。


いつまでも振れているようだけど、振り子の重りを吊るしている糸は、いつ切れてもおかしくない、細くて脆い糸。

それに気づいているけど、気づかないふりをして、今日も右に左に振られている。


2015年4月6日月曜日

選択と集中

選択と集中


この言葉は、もともとは経済学やビジネスで使われる用語です。

社会人として仕事をする中で、この言葉には何度も出会ってきました。

得意な分野に経営資源を集中して、利益や顧客満足、ひいては競争力をを高めて、ビジネスを存続・成長させていくという意味だと思います。


ぼくはこれがすごく苦手です。

欲張りの捨てられない症候群なので。


選択できず、集中できず、すべてを中途半端にしてしまう。

どんなに小さなものでも、どんなにリスクが高くても好きなものは捨てられない。

自分に甘いので、何とかなるだろうと淡い夢を見て、いろんなものを抱えてしまう。

好きなものが多すぎる。

感情が先走ってしまう。

わかってはいるんですけどね。

2015年3月31日火曜日

GO OUTSIDE!

 
 
 
 
GO OUTSIDE!

 
 
この言葉が、最近の自分にすごく響きました。

 
年末からずっと引きずっている出来事があって、ぼくの思考はずっとその渦中にありました。

とても楽しいのですが、そのまま進み続ければいつか暗闇の行き止まりしかないような、そんな感じの出来事です。

過去を振り返ってクヨクヨしたり、楽しかった出来事にすがりついたり、なぜあの時こうしなかったのかと後悔するのが昔から得意でしたが、この冬の2ヶ月間はそんな自分の性質にドップリはまっていました。

そんな状態も、良かったのか、良くなかったのかわからないような転機を迎えて、ぼくの状況なんて関係なく、少しずつ寒さがやわらいで、季節は春になりました。

 
すさまじい雨男なので、昔からお花見には縁がないのですが、それでも桜が咲く春はとても好きです。

暗く、さむい暗闇にとじこもっていないで、少しでも、明るくてあたたかい外へ出たい。
 

今も気持ちは、あの暗闇に進む道にある。
 
だけど、流れに身をまかせて、明るく、暖かい、サクラの咲く春を楽しもう。
 
 
GO OUTSIDE!

2015年3月24日火曜日

土日月の毒ガス

毎週土曜、日曜、月曜は、心が乱れる。

深く沈んで、浮き上がれない。

理由はわかっているけど、どうすることもできない。

何かで紛らしていても、ふとした瞬間に、空虚感が訪れる。

楽しいことをしていても、動き回っていても、集中力が切れた瞬間や、

一人になった瞬間にそれは訪れる。

毎週土曜日から月曜日のぼくの周りには、常に色のない、透明な毒ガスが舞っていて、

なにかで気を抜いた瞬間に、その毒ガスはぼくを包み込んで、身体の感覚を奪い、視覚を奪い、

底なしの沼に沈み込むような感覚にとらわれる。



ずっと、楽しいことばかりでなくてもいいけど、この苦しみがなくなればいいのに。

2015年3月19日木曜日

Ariana Grande - One Last Time (Official)





最近、この曲が頭から離れない。



なぜか、心を乱される歌。

きのう見た夢

 
お互いすごく好きなんだけど、どうしても別れないといけなくなって。
 
いままで、陰でこそこそ逢ったり、連絡を取り合ったりしていたのもなくなって、
 
すごくさみしいけど、元には戻れなくて、
 
毎日のように、うしろ姿を遠目にみるだけ。
 
すぐ近くにいて、手が届きそうなのに、届かない。
 
手を伸ばすことができない。
 
こんなに深く想うんじゃなくて、
 
もっとドライに、割り切ってしまえばいいと、自分でも思うけど、
 
割り切れずに、毎日悶々としている。
 
彼女のすべてを手に入れたかった。
 
それはぼくのすべてを捨てることが条件だった。
 
そして、彼女のすべてを捨てさせることが必要だった。
 
ぼくにはそれはできなかった。
 
彼女も、それができなかった。
 
 
 
きのう見た夢。

2015年3月16日月曜日

季節のおわり

去年の年末から、すごく楽しいことと、すごく苦しいことが、表裏一体でぼくに
押し寄せてきて、ハイとローの波が激しくて、自分自身が全くコントロールできなかった。

そんな中でも、自分の身の回りはコントロールして、破綻しないように注意深くしていた。

でも相手があることだったので、どうしてもそっちはコントロールできなくで、結局はそんなゴタゴタとか、楽しいことは終わってしまった。

残っているのは、楽しかった思い出と、何とも言えない喪失感。

直後はすごく混乱していたけど、あれから1週間たった今、やっと気持ちも落ち着いてきた。

よかったことは心配事が一つ減ったことと、時間の空きができたこと。

つらいことは、書ききれないほど。 少しの間だったけど、あの、暖かい時間が戻ってこないこと。


でも大丈夫。

少しずつ、この気持ちも、記憶も薄れていく。

そして、また新しい季節がやってくることを、ぼくは経験的に知っている。


はやく、春が来てほしい。

2015年3月12日木曜日

ことば

ことばがとても苦手です。

いつも、自分のことばに苦しめられます。

その時の、正直な気持ちをことばにしても後悔してしまうことがしばしば(しょっちゅう?)あります。

なんであの時、あんなことを言ってしまったんだろう?

たとえ、今から訂正しても、一度伝えたことばは、相手の中で意味を持っているはずです。

そう思うと、すごく後悔してします。

その時にもどって、もう一度、ことばを選んで伝えなおしたい。

それは話したことばだけではなく、ブログや、メール、LINE、Instagramなどでは、テキストで残ってしまう。

あのときの気持ちは、ウソじゃなくて、正直な気持ちだけど、

時間がたつと見えてきたり、本当に大切なことに気づいて後悔する。
伝えたことばはもう戻ってこないけど、

それが意味をを持って、いまのぼくとは別のものになってしまう前に、

今のぼくの、あたらしいことばを伝えたい。

2015年3月10日火曜日

なごり雪


最近、少しずつ暖かくなってきて、「そろそろ春が待ち遠しいな」と思っていたところでした。

そんな中で、頭の中でずっとなっている音楽が「なごり雪」でした。


動き始めた
汽車の窓に 顔をつけて
君は何か 言おうとしている
君のくちびるが
「さようなら」と動くことが
こわくて 下を向いていた

君が去った ホームに残り
落ちては とける
雪を見ていた

リアルに聴いていた世代では全くないけど、

聴いてみると、メロディとか歌詞とかが心にしみる。


そう思っていたら、今日は雪が降りました。


春が待ち遠しくてしかたない。

暗く、閉ざされた冬じゃなくて、

暖かく、照らす、ひだまりの春。

2015年2月16日月曜日

One more Time.


いつもの景色が、明日もあるとはかぎらない。

ただでさえ限られた機会だから、短い時間でも大切にしないと。

もったいぶっている場合じゃなかった。

地下通路まで行ったのに、わかっていたのにすれ違って、そのまま逃してしまった。

後戻りしても遅かった。

すぐ近くにいたのに、手が届くところにいたのに、手を伸ばさなかった。

残っているのは後悔だけで、無くしたのは大切な時間。

もう一度だけもったいぶって、それでもまだチャンスがあるなら、迷わず手を伸ばそう。

手を伸ばして、触れて、

つつみこんで、

言葉にする。

2015年2月4日水曜日

2015

2015年がはじまって、いつの間にか1か月が経っていました。

ホントの話、2月が始まっていたことに気づいていませんでした。

年末から年始にかけて、例年と違うことがたくさんあって、

年末年始を楽しむというか、年末年始を感じる余裕がなかったというのが正しいですかね。

そこからさらに一か月、まだゴタゴタとかバタバタが継続していて、


今起こっているゴタゴタは、前にも進めなくて、後にも戻れなくて、

今のところはゴタゴタ、バタバタ収まる気配がない。

今の状態に慣れてきたから、精神的には落ち着いてきたけど、

実はもっと大事になる可能性が大いにあるんですよね。


話はかわって、昨日は節分でしたね。

豆をまいて、鬼を退治して、恵方巻き食べて1年の健康を願うという風習ですよね。

恵方巻きは、恵方を向いて(今年は西南西?)無言で1本の太巻きを食べるのが正しいらしいですね。

しかも、太巻きは切ったものではなく、1本!だそうです。

なんて大変な行事なんだ…。

あと、歳の数だけ豆を食べるというのも、歳を重ねるにつれてだいぶきつくなってきましたね…。


とりあえず、2015年の目標もコンセプトも、方針も、何も決まっていませんが、

このゴタゴタとか、ぼくの心の中にある悪いものとか、

鬼は外!ってやらずに、大事に抱えて進んでいこうと思います。

面倒だけど、嫌いじゃないし、曲がりなりにもぼくの一部だと思うので。

いつかどうせ、ゴタゴタの記憶は薄くなったり、問題自体も消えてしまったりするかもしれないし、

それまでは、ぼくの一部として抱えていこうと思います。